プロフィール

基本情報

名前 野島 善司(のじま ぜんじ) 野島 善司(のじま ぜんじ)
生年月日 昭和24年(1949)3月11日
出身地 東京都東久留米市
キャッチコピー 誠実、真面目、地道にこの道ひとすじ
現在の役職
  • 都議会厚生委員会委員(12年間)
  • 都議会税制議連会長
  • 都議会自民党厚生政策推進本部長
    (医療政策研究会幹事長・ 高齢者政策研究会会長・ 保育政策研究会幹事長・ 障害者政策研究会幹事長)
最終学歴 日本大学(法)卒
家族 妻、長男夫婦、孫2人
好きな事 ダイビング、ゴルフ、ラジオを聞く事、水泳、食材さがし、厨房にはいる事、アウトドア、男の手料理
尊敬する人
座右の銘 細心大胆
好きな食べ物 野菜

略歴

昭和24年(1949) 東久留米に生まれる
昭和46年(1971) 日本大学(法律学科)卒、東急不動産(株)にてサラリーマン生活
昭和58年(1983) 東久留米市議会議員に当選(5期連続当選)以降市政にたずさわる
昭和62年(1987)8月~
平成2年(1990)1月
東久留米市助役
平成7(1995)年5月~
平成13(2001)年3月
東久留米市議会議長
平成13年(2001)6月 東京都議会議員に当選
平成17年(2005)6月 東京都議会議員に当選(2期目)
平成21年(2009)6月 東京都議会議員に当選(3期目)

野島 善司・物語

わが青春の軌跡

姉5人の長男として

東京都北多摩郡久留米村(現・東久留米市)。武蔵野の一寒村で、篤農家の父と商家から嫁ぎ、妻・嫁・家内労働の役をこなしていた母の長男として、昭和24年に生まれました。長男とはいえ、上に姉5人、父40歳、母38歳の遅い「跡取り息子」の誕生でした。家督相続的な時代と風土、それまで「どうせここの身上は入り婿に渡すんだから」と言っていた父は、私の出生以降「生活や仕事への態度が変わった」そうです。

 父は幼い私に促成栽培を施したかったようで、折に触れ自身の苦労話や仕事での工夫談、そして処世訓等を聞かされました。また、議員職にあった時には、帰宅するや否や野良着に着替え、農作業に取りかかる後ろ姿を見て育ちました。

 そのような背景もあってか、小学校の卒業文集の題名は「家業を継ぐ」。友人達の科学者、野球選手、パイロット等に比べて夢の無い、なんとも現実的なものでした。

姉5人の長男として

 さて、高校進学時には、都市化の波と家族労働力が確保できないだろうとの考えからあっさり方向転換し、動物好きの心優しい少年は、獣医になって動物園に勤めたいと思うようになりました。そのためには大学へ、付属高校が近道、と言う事で日大豊山高校に入学したのが、東京オリンピックの開催された昭和39年でした。しかし、3年のコース分けの際、獣医学部は理系との事で試験に臨みましたが、散々の成績でしたので、(加えて、そのころ犬に噛まれたこともあって)直ちに文系に鞍替えし、まあ潰しが効くだろうとのことで法学部法律学科志望に。これもあっさり2回目の方向転換し、昭和42年に日大入学。

溜まり場「セントルイス」

 待っていたのが学園紛争。翌43年11月の日大講堂の大衆団交での、経営陣退陣との約束が翌日には反故にされ、また、多額の使途不明金が紛争の発端だったこともあり、「とんでもない」との思いからデモに参加、封鎖中の校舎にも出入りしたりしました。造反有理、体制変革、この闘争で「自分を見つけた」等と熱く語る友もいましたが、私は「とんでもない」で思考が止まる程度の所謂ノンポリその他大勢組でした。

溜まり場「セントルイス」

 当時、白山通り沿いの「セントルイス」という喫茶店の2階の一角が我々の溜まり場、ここでのダベリング、そこから雀荘やパチンコ、授業に出席し、戻ってきてはまたタベリ。紛争の影響もあり、授業は半分も無かったと思います。アルバイトで稼ぎ、友人の下宿先でレッドを片手に豚肉のスキヤキをつつきながらの青臭い議論を戦わせました。一方、北海道3週間カニ族旅行、山歩き等のどちらかといえばアウトドア派、地域の野球チームや青年会の活動にも加わっていた時もありました。

 高校・大学時代を省みて、部活動に熱中する事も、何かを極めよう、目標に向かって挑戦しようとの思いも全くなく、したがって、強烈な刺激や挫折感とは無縁な、謂わばモラトリアム人間の典型でした。

売手市場だった就職活動

 さて、4年時の就職活動は売手市場でした。親の希望に添うのは東久留米市役所。が、息が詰まりそうなので消去。かっこ良さに憧れて総合商社、ゼミの影響もあって証券会社にそれぞれ内定しましたが、一番の希望は不動産業でした。

 当時、「これからの不動産業は街の機能を付加した開発、デベロッパーの時代」との言葉に触発され、東急不動産(株)に昭和46年に入社しました。

 最初は仲介営業(売買の斡旋)。先輩の仕事ぶりを見ながらの徒弟的、自営業的なものでした。その時の係長は、会議は飲み屋で、遊びは徹底的に、そして家族ぐるみの付合等(今では珍しい?)親分肌タイプで、周囲に人の集まる人でした。今でも当時の部下が集まり、その名を冠とした「児山学校」の同窓会は楽しみの一つです。

売手市場だった就職活動

 次の職場が、千葉県土気町(現緑区)の開発区域310ha・地権者1200人・計画人口30,000人の区画整理事業準備の仕事でした。市の開発抑制方針もあり、塩漬け状態。曇天多湿の職場と揶揄されていた職場でした。私も「えっ、まいったな」という気持ちで異動しました。

 私の担当は地元対策。地権者に区画整理事業に同意を得ることですが、この種の事業は関係者の利害が錯綜し、合意形成が極めて困難なのは昔も今も同じです。社運を懸けてと言うことで様々に仕掛け、ようやく(具体化し)動き始めれば反対運動にも火がつき、私はその担当係長でした。朝な夕なの地主廻り、土日もなしの住民交渉、説明会を開催すれば罵声を浴びる日々でした。

市議に転身、さらに助役に請われる

 一方、両親の高齢化と単身赴任的な生活の中、家の事業や地域付合い、子育て、父母の面倒等の全てが妻にかかってきました。跡取りと言うこと、この先地方転勤や昇進を考えるとここが潮時と退職することにしました。昭和57年9月30日の認可取得の日、その喜びに沸く関係者の祝宴で挨拶を申し上げて11年6ヶ月のサラリーマン生活に別れを告げました。

 退職し、家の事に従事しましたが、「暇有り刺激無し」の状態。翌、58年(4月)、市議会議員選挙に、「都市開発の経験を生かし活力ある街を」との旗印で立候補しました。保守系の場合、「種々の地域活動の後、五十代になってから」と言うのが一般的で、「昨日迄サラリーマン、34歳」は異質でしたが、当選することができました。

 62年、再選。3カ月程して市長から、市助役にとの要請がありました。雑踏に、山中に、そして日常生活に身を置いて省みても、何処に居てもそんなに存在感があるでなし、「人に請われた時こと存在感」と思い、助役に転身しました。

 最大の課題は行財政改革。人口増・歳出増・行政サービス拡大・職員増の行政から、今では当たりまえの民間委託や事業の統合、合理化、職員削減へと転換したわけですが、市政の大転換であり、徹夜議会、市民対話(ほとんど人民裁判的)、そして組合交渉等でヘトヘトになりました。施設管理の合理化のための条例審査の際、「冷静沈着に」の紙を答弁書ら貼って延々13時間の答弁、市長が減俸なら助役も減俸、助役の辞職か行革の中止か等、言われ放題でした。

 それでも何とか就任時の課題を達成(現職は勇退)し、反行革を旗印とした革新新市長から「助役の辞職が市民に市政が変わったことのメッセージ」との高い(?)評価をいただき辞職、時に、平成2年1月23日でした。

 今日の東久留米市政はもちろん各自治体の行政を見る時、あの取組みは正しかった、先鞭をつけたと回顧しています。

市議に返り咲き、都議会へ

 助役を辞任してから1年余、引退するには早すぎることから、翌平成3年の市議選で議員に復活、平成7年に4選され、市議会議長に就任し13年までの6年間在職しました。この間に、38歳での助役や6年間の議長職(かつて議長職にあった父は病の為1カ月程で退任、その意味では亡き父への供養にもなった)は、わが市政始まって以来の事であり、その事を自身の誇りとし、13年夏の都議会議員選挙に立候補すべく準備を進めました。それまでの私の言動が祟ってか、必ずしも盤石の態勢ではない中での、出馬の決断でした。

 13年3月の市議会最終日、同僚議員に「今日までいささかの先輩として、持てるものは提供し、競争しながら共に成長しようと議員活動をしてきた。今回の皆さんの対応は合点が行かない。今後皆さんと活動を続けても私には何ら得るものがない」と申し述べ、選挙準備を加速させました。そして、「救う神あり」。小泉旋風に助けられ、告示1週間前自民党最後の55番目の公認候補というドラマチックな展開の中、初陣を飾る事ができました。その票数「18,974」、「いいや悔いなし」、ゴロ合わせがこのドラマを象徴したものとなりました。17年の選挙ではより強固な支援をいただき再選、そして今日に至った次第です。

 齢57歳までの間、自分を取り巻く状況は、良きにつけ悪しきにつけ、すべからく所与のものと捉え、様々な場面で「気にはしろ、拘泥されるな、そのうえで」との心構えで取り組んでまいりました。

 サムエル・ウルマンの青年賦に「年齢は皮膚に皺を寄せるが、情熱を失うとその人の魂に皺が寄る。常に明るい希望をもち、勇気凛々、未来の夢に挑戦する人、生命の歓喜を神に感謝する人であれば50歳であろうと70歳であろうとその人は青年である。」との一節があります。

 私の好きなこの詩を唇に乗せながら、これからも私の青春の軌跡をしるして行きたいと思います。

応援メッセージ

衆議院議員 東京20選挙区支部長
木原 誠二

決してパフォーマンスは得意ではありませんが、現場重視・市民目線の、本物の政策通。
是非、その本物ぶりを平易に分かりやすく皆様にお伝えいただければと思います。

 

市議会議員自民党東久留米支部幹事長
篠宮 正明

都立六仙公園・所沢街道整備・障害者施設の整備等着実に地域課題を進めてくれます。
ただ、熱心さは程々に、お互い年令ですから。

 

市議会議員 自民党清瀬支部長
中村 清治

「小児病院跡は、緑と福祉。清瀬のイメージを損なわないように」との、
私の提言に応えたものとなりました。これからもしっかり連携していきましょう

 

市議会自民クラブ代表 自民党清瀬支部幹事長
斉藤 正彦

清瀬市政の課題に誠実、丁寧、着実に取り組み、清瀬の発展にちからを貸して
くれてます。ゴルフもその気持ちでやれば少しは上達しますよ。